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鹿角における士族の脱刀・帰農は比軽的平穏に推移したかにみえるが、他地方における士族の脱刀は、むしろ
新政
農商の風俗服装の混乱を招いたようである。三年一一月の太政官布告で、百姓町人共が襠高袴、割羽織を着、長
脇差を帯して士族に紛わしい風体で通行してはならないことが示され、さらに翌一二月には、農工商の輩が許し
φなく猥りに帯刀するのは以ての外の事であるから、厳しく取締るべしとの達が出された(
『通達綴』諏訪
家文書
)。新政
府への不平不満と相まって、農商の人々の、年来鬱積し続けてきたものからの解放感がしからしめたのであろう。
四年八月九日、太政官は散髪脱刀令を発した。その内容は「散髪、制服、略服、脱刀共、勝手タルベキ事。但
シ礼服ノ節ハ帯刀致スベキ事」であった。これまでの丁髷と帯刀は、外国に恥ずべき弊習であり、かつ帯刀は治
安維持上問題があるとの考えからであった。しかしこの布告もにわかには徹底せず、たとえば鹿角では昭和初め
頃まで丁髷を結った幕末生残りの老人を、しばしば見かけるものだったという。とくに帯刀は士族の象徴だった
ので、鹿角のように戊辰戦争の敗者となった地域は、新政府への恭順の意もあって早くから脱刀していたが、逆
に官軍藩であった秋田の士族は強い抵抗を示していた。五年五月パリ外国宣教会のマラン神父一行は鹿角・盛岡
から角館へ入ったが、政府の禁令にもかかわらずここの家来たちは今なお刀を帯びていると、驚きをあらわして
j・M・マラン
いる。(
)。
『東北紀行』
士族の廃刀が強制的に行われたのは、九年三月のいわゆる帯刀禁止令によってであった。この令が一部士族の
尺発を招き、同年一〇月熊本神風連の乱などの原因となったことはよく知られている。
戸籍法
以府が全国の人民を掌握するために先ず必要としたことは、戸籍の編成であった、その趣旨は
明治二年一二月の民部省布告「戸籍編成例目」に、戸籍は治国の要務、黎民卒育の根底で、人