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鹿角郡長嶺村百姓
農業
農業明治三午六十才勘助
明治三午六十才勘曲
一、田弐反五畝長嶺村弘化元辰二月同村百姓三之助娘ヲ娶同五十二才妻つ
同五十二才妻つね
一、畠三畝同村
、畠三畝同村同二十三才男子長治
一、林同村同十一才女子さ
明治二已三月同郡湯瀬村百姓永七娘ヲ娶同十六才長治妻さよ
八幡神社氏子
右の例を、藩政時代の宗門改帳
『鹿角市史』第二巻下
一七二~七四ページ
)に照らし合わせてみると、まず妻の分が以前はたんに女房
とあってその名を欠いたものがここでははっきり名を記されており、加えて何年何月何村誰の娘が娶られてき
かも明らかになっている。上欄に農業と明記され、田・畑・林の面積・場所、馬の頭数の記載がある。ただこの
時点では、まだ苗字が冠されていない。平民に苗字の許されたのは三年閏一〇月で、同年一二月二日「村々苗字
早々取調書上候様可申候」
『御用留帳』倍
賞家文書
)との督促が各村庄屋に宛て出されている。
なお村々からの戸籍提出は思うように進まなかったらしく、三年一〇月二〇日江刺県花輪役所は調御用掛を任
命して催促させている。『通達綴』(
諏訪
家文書
し)に「兼て相達し置き候戸籍取調ノ儀、今ニ出来相成兼候ニ付、小
田嶋徳弥、奈良駒治え調御用掛御達ニ相成候条、下調帳早々持参、同人え承合取調候様致し可く候」との達が記
されている。
四年三月、江刺県花輪庁の申達として、出生・死亡者はその村町の庄屋年寄まで必ず届け出、庄屋年寄は戸籍
掛へ差出すこと。他管轄所からの嫁もらい等の節は先方より送状を持参して、その村町の庄屋年寄より戸籍掛へ
『御触
帳』
届け出ること。脱走人や変死者があれば早速聴訟掛並びに戸籍掛へも届け出ること等々を示している(〓
)。
)