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三、自由民権運動

不平士分層の動向

明治初期における鹿角の旧士分層は、心ならずも新政従順、畏縮の状態におちいってい

た。その理由はいうまでもなく戊辰戦争の敗戦と賊軍の烙印に対する負い目であった。

)以来相次いだ諸改革にも、他郡にみられるような行動

度重なる新県編入の結果、最終的に組入れられたのが数年前戦火の中に相見えた当の相手秋田県であることも、

忌気を消沈させるもとであったに違いない。壬申一

明治

五年

的な反対運動は起こらなかったのである。

新政府の当面している最も大きな問題の一つに、士族の家禄整理があった。廃藩置県によって、士族の家禄を

支給することとなった政府は、財政支出の三分の一近くという大きな負担を解消するため、一時賜金の下付や

債発行をしながら段階的に整理を進めようとしていた。しかしこのような国の特典にさえ、鹿角の旧士分はいっ

cい与るところがなかった。すでに二年五月、盛岡藩主の白石転封に先だって士籍を離脱し、帰農・帰商してい

『出陣

たのである。またその時点でいち早く「鹿角中に帯刀の者一人もなかりき」

(

という有様となったこと

日記』

は、新政府のもとにひたすら恭順と服従の意を表わそうと努める旧士分層の姿のあらわれであった。

士分層の帰農・帰商の実態については、いくつかの不明な点が残されている。家禄から離れるということは、

直ちに失業と生活の窮迫を意味するように思われるが、実情は必ずしもそうではなかった。かつて伊藤良三氏は

盛岡直臣の御給人も桜庭家中の陪臣も戊辰戦争降伏と共に士籍を離れて平民となったが、食禄はそのまま土地

で貰ったから、士族ではなくなったが地主として残ったのである。百姓も従来通り地主の小作人として継続した