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同様の記載がなされている。なかには必らずしも旧士分と云い得ない人たちも含み、また年少組としては青山勇
太郎一四年一一カ月、児玉岩吉・大里清七一五年、立山廉太郎一五年六カ月、馬渕良太郎・高橋勘治良・石川権
吉・和井内吉弥・熊谷東次郎・小泉喜代治がともに一六年代である。
こうした台湾出兵の従軍願は鹿角に限ったことではなく、同年一〇月旧秋田藩士ら四七三名が県へ従軍の歎願
書を提出し、他に九一名が総額一〇一円七五銭の献金願を申し出ている(
『新編北羽
発達史』
)。その後遠隔地の者も加わ
り、従軍願が二、一四九名に達したということは、各郡部の士族にも同様の動きがあったことを物語っている。
この出願に対し陸軍省の指令は「別紙雛形に照準し、戸主並ニ子弟等之区分相立て、名簿表相製し早々差出す
可き事」というのであった。
前掲岩泉家文書の内「支那国出兵願」の名簿は、まさしく陸軍省指令の様式に則していることから、毛馬内有
志は少くとも一〇月初めごろに一度願書を出しており、この一一月付の願書は指令をうけたのち再提出のため調
成した分と思われる。明治七年における台湾出兵は、清国に派遣された大久保利通の交渉によって解決をみ、
○月台湾から日本軍が撤兵した。一一月付願書は、はたして提出されたかどうか、明らかではない。
新撰旅団へ応募
明治一〇年二月、わが国最後の内乱ともいわれる西南の役が起こった。西郷隆盛が私学校
生徒に擁されて、鹿児島に兵を挙げたのである。この九州の兵乱は、北に遠く離れた鹿角
の地にも深刻な影響をおよぼし、士分層を明暗二つの様相に分けている。旧藩士に対する新撰旅団編成の募兵と
真田大古事件連座がそれである。
政府は西南の戦火を鎮圧するため、東北旧藩士族から警視局臨時巡査を募集して新撰旅団に編入し、戦場へ送