テキストを表示

○ことを企てた。この企図は右大臣岩倉具視の策によるといわれ、戊辰以来不平不満を鬱積させている朝敵藩東

北士族をして、年来の仇敵と目す旧薩摩藩と相戦わすことによって、その鋒先を逸らそうとするものであった。

これは、四月に内務少輔前島密から岩手県令島惟精へ宛てた訓令のなかの文言に、まず県下の悲憤家と注目され

る者を主として応募させ、西郷・桐野等を信ずるごとき者は除いて玉石混同しないよう注意すべし、としてある

ことからも明らかである(

『岩手

県史』

)。

士族中ニテ此際起テ志願スル者ハ、蓋シ多クハ平素議論ヲ逞シクシ、時勢ヲ論スル等、即チ勃々悲憤家ニ之レ有ル可

キ処、此事ヲシテ徴募ニ応セシムルトキハ、当分ニ取テハ大ニ用ヲ為シ、而シテ其県ニ取テハ当今人心〓々ノ際、偏ニ

紛論抗議ノ骨子ヲ抜キ、管下鎮撫上甚夕便ヲ得ル等、間接ノ利益少ナカラズ、是亦自ラ今般徴募ノ詮議ヲ起シタル一原

因ニモ之レ有り候条云々

六月、岩倉具視の依頼をうけた旧藩主南部利恭は、臨時巡査志願を勧誘するため盛岡へ到着した。旧藩主の説

得に従って応募する者が続々とふえ、四月以降を合わせるとその数八〇〇名にも達したという。郡内士分層のう

諏訪

ち大湯における動向は、諏訪諒平『御新田御用留帳』

)にくわしく記されている。

家文書

八月一六日夜、諏訪諒平のもとへ古川村賀川祐五郎が訪ねてきた。旧主北(南部)済揖が賀川宅に着き、用事があるの

で来てほしいという。早速旧大湯南部(北氏)家中の者三名と同道して、古川村へ向かった。久しぶりの拝顔ののち旧

主の言われるには、今般西南賊徒の暴威いよいよ相募り、旧藩主は岩倉右大臣の懇望黙し難く、旧藩士を出張加勢させ

ることに同意した。その代理として、済揖が鹿角旧士族説諭のため出向いてきたとのことであった。しかしその後の北

済揖の説諭にはあまり効がなく、旧給人では花輪より二名、毛馬内より一名、ほかに桜庭家中からは一名も出ず、花論

南部家中から一二、三名が、大湯からは四三名の志願者が出た。二六日大湯村出立、二八日盛岡着、二九日には南部利

恭侯のお呼出しでお目にかかった。三〇日岩手県庁へ出頭し、旅費三五円四〇銭を支給された。