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明治十年七月サ

第10図四等巡査心得辞令(一方井家文書)

その日、一番組元家老一方井孫四郎什長、二番組什長汲川千七郎、三番組仕

長用人諏訪諒平、四番組什長元留主居山口林司、五番組元留守居諏訪善作、右

五名は什長道中取締を命ぜられた。諏訪諒平の預り兵士としていずれも大湯の

千葉礼八、谷地吉太郎、谷地忠次郎、米田駒太郎、青山善六、谷地源太、千葉

熊太郎、中村市右衛門、石田冨太郎が配属となった。七月一三日東京着、一五

口南部利剛から直接激励をうけ、翌日赤坂巡査屯所(元松平出羽守屋敷)へ入

営した。

(しかし西南の役は既に終局を迎えており)、八月二一日に「御用済解職帰郷

の達がでた。翌二二日、吹上御苑前において天覧あらせられ御酒肴を下賜され

た。三〇日、警視局から次の書付を頂戴した。

元二等巡査心得秋田県諏訪諒平

裂ニ西南騒擾之際ニ方り能ク報国ノ義務ヲ弁シ速ニ應募出京候段奇特ノ事)

候、依テ慰労トシテ金拾五圓下賜候事、但慰労金之儀ハ帰郷ノ上縣廳ヨリ可下

渡候。

明治十年八月三十日警視局

警視局

同時に秋田県までの旅費金二二円五〇銭をうけ、かつこれまで拝借の銃・武器その他七八名分を返納した。八月三一日

の途につき、九月一八日大湯へ着いた。六月二六日に大湯を出てから八五日目のことであった。

新撰旅団巡査応募の顛末について、諏訪諒平の手記はおおむね以上の通りである。一方、花輪においては旧花

輪南部家中川村左学が中心となり、その徴募に応じている。初め北済揖が花輪へ来て勧誘につとめ、また南部利

恭より花輪の南部康直へ依頼の書状があったが、一人として応ずる者がなかった。花輪南部家当主の面目の失な

われることを憂えた川村左学は、旧臣頭取の自分から先鞭をつけなければ誰も起つ者がいないだろうとして、先

す志願した。続いて川村善太郎、大里禎治郎、大里祐蔵、大里亀治、大里権太郎、奈良熊太郎、小田嶋恒弥、佐