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藤武八郎と都合九人が出願し、ほかに元給人四、五名、在町より六、七名と八小区内計二二名の出願となった。

ての内教員五名と神官一名を除く一六名が許可となり、六月三〇日川村左学以下が出発し、盛岡を経て七月一七

元老中

日東京へ到着した。一九日辰ノ口臨時巡査屯所

〓)へ入営、二三日馬場先門外臨時巡査屯所

元備前

屋敷

)へ転

屋敷

宮したが、ここで初めて鹿角人全員が合同することとなった(

以上、子息才太郎宛川村)

左学書状・川村家文書

)

)。

また、新撰旅団第八大隊の編成には、第三中隊の中隊長に大湯南部・北済揖、給養炊事係に諏訪諒平、分隊長

に川村左学、一方井孫四郎らの名が挙げられている。

右の新撰旅団は、出征することなく八月末に解隊しているが、本郡からも正規の徴兵により西南の役実戦場に

投入された人々がおり、その内戦死者として本県五五名中に「九月十七日日向都城ニテ歿ス、第二大区八小区三

ケ田陸軍一等卒阿部三助」の名がみえている(

『北羽発

達史』

)。ほかに遠藤政忠

士族

寺坂

が、臨時召集遊撃隊員として

実戦に参加し鹿児島において負傷した

遠藤

文書

)。九州に起こった西南の役は、北奥の鹿角地方にも鮮明な影を落

したのである。

真田太古事件

前項の新撰旅団応募とは全く逆の立場で西南の役に呼応し、武力をもって反政府運動に蹶起

青森

しようと図った一団があった。三戸郡一

〓)、二戸郡

岩手

)、鹿角郡毛馬内の三県にま

たがる旧士族層の約三〇〇名が行動を起こさんとしたのである。その目ざすところは「大臣ニ面シテ不正有司ノ

罪を弾し、天下ノ大計ヲ議シ、万世ノ大憂ヲ払ヒ、立トコロニ西征ノ師ヲ班シ、一朝ニシテ新政府ヲ破毀シ、

(略)今上ノ威徳ヲ海外万国ニ輝サント欲ス」

小田為綱

起草檄文

で、「師ヲ班ス」とは、軍隊をひき返させるの意であ

る。主謀者は、三戸郡関村元修験真田太古であったといわれる。