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いわゆる真田太古事件の概略を、岩手県庁所蔵「真田太古陰謀始末記」

森嘉兵衛・森ノブ「明治前期

の政治思想について」所収

)によってた

こってみる。その発端は、一〇年四月二七日岩手県へ、鹿角郡や青森県において不逞の徒が暴発し、まさに西郷

の軍に応援しようとする動きがある。その巨魁は三戸の修験真田太古であるという情報が入ったことに始まる。

その後太古一派に潜入した県の密偵が得た情報は、次のようなものであった。

太古の同志として鹿角郡に豊口唯志・豊口仲之助・高橋嘉八等三〇余名、三戸郡に五〇余名、盛岡には二〇〇

余名いる。また四月二一日頃毛馬内村豊口唯志・豊口仲之助・高橋嘉八等を密かに三戸へ派し、銃器刀剣類を運

搬する計画である。さらに四月二五日の夜をもって事を挙げ、青森では分営と県庁、三井組の出店を襲い、盛岡

では中心人物の一人小田為綱の手で岩手県庁を襲うとの手筈であったが、今寡兵を以て事を起しても一敗する心

配があるとの意見が出、とりやめた。銃器の数はミンへール二〇挺、和銃一〇挺、弾薬二、三〇貫目の蓄積があ

る。金と米は浄法寺村の豪農を説得して出させる予定でいる。太古方の兵は紺股引に紺脚半、草鞋をはき、洋〓

を着た者はみな敵として斬る。青森を襲う兵を三手に分け、一手は間道を疾駆して毛馬内に入り金銀山(一

)を

尾去

掠奪し、一手は花輪に進んで銅山

現二

)を掠奪し、一手は七戸・五戸・三戸を煽動して福岡

)を経、浄

戸市

法寺に入り花輪の兵と合する。のち再び進んで盛岡に入り、諸方の兵を合せて仙台鎮台兵を破り、遂には東京に

入らんとする計画である、とのことであった。太古は五月一七日の行動開始を連絡したが、これはすでに県側の

知るところとなり、五月一二日から同志らはすべて捕縛されるに至った。

この事件は鹿角郡、とりわけ毛馬内において多数の同調者を捲きこんでいた。密偵の福岡・下斗米与八郎の手

記によると、下斗米は、県から秋田県鹿角郡に不逞の徒が徒党を組み、真田太古に通謀していると聞かされ且そ