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国会開設運動前後

国会開設をめざした県内の組織的活動は、一三年二月山本庄司

山本郡

富根村

)らを中心とし

)。

た北羽聯合会に始まる。その規則には「本会の目的は有志者と共に国会開設を懇願し、

〓国の安寧を冀望するに在り」とうたい、役員のうちに県内巡回委員を置くことに定めている。同三月下旬鹿角・

北秋田・山本三郡担当の巡回委員として畑江道知

〓)、守屋斌太郎

)が、有力者の加盟を勧誘して廻った

が、その実情は明らかでない。一三年五月北羽聯合会の建言委員遠山角助が上京し、元老院に国会開設の建白書

山本庄

を提出した。なお山本庄司は、一四年一〇月毛馬内、大湯に宿泊し、のち上京の途次湯瀬に一宿している(〓

可『臆』

平鹿・

三年一一月東京愛国支社に開いた国会期成同盟大会に、秋田立志会柴田浅五郎

)が二、六四五名の

吉田村

代表として、狩野元吉一

)が有志五六四名の代表として出席した。一方、盛岡自由民権運動の中心とな

た求我社の鈴木舎定は、この大会に岩手県各郡有志一、五〇六名と、旧領青森県三戸・秋田県鹿角両郡の有志六

○〇名の総代として参加し、請願書の立案委員となった一

「盛岡市史』

第七分冊

)。この時期、当然鹿角の有志と求我社の間

には何らかの連携があったものと思われる。

秋田立志社は柴田浅五郎を会長に一三年八月に設立されたが、その後の同年一〇月二一日付秋田退邇新聞に

各地より入会者が集まりその人員約三、〇〇〇人、代表的人物の一人として「鹿角郡毛馬内村湯瀬哲太郎」の

名があげられている(

田中惣五郎「秋田事件」・『秋

田県の自由民権運動』所収

。立志会は、一四年五月以降一部急進分子による豪農襲撃へ偏

向し、いわゆる秋田事件を惹起するに至るが、湯瀬はこの暴発には全くの埒外にあったに違いない。

四年一〇月、国会を二三年に開設する旨の証書が発せられるに及んで、民権運動諸勢力の再編の動きが活発と

なり、やがて一五年六月秋田県自由党、秋田改進党の結成へ発展する。秋田県自由党の党員分布は、平鹿・雄勝