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の県南部三九〇人、仙北一六人、河辺一人、南秋田二人、鹿角一人で、ほとんど農民層によって占められていた。

鹿角の一人は名簿に大湯村小田島喜代太・一六年三月二日加入とあるが(

明治一七年五月「自由党員名簿」、

『秋田事件関係史料』田口勝一郎

)、その事

蹟は明らかでない。当時の官憲による自由党弾圧は全国的な傾向で、本県もまたその例に洩れなかった。自由党

員の多くが中小農民であったことと異なり、秋田改進党は県会議員の大半を党員に擁していた。このことは県会

活動を主としながら立憲政体実現の運動へ進む、同党の性格を端的にあらわしている

鹿角郡の改進党員として、一六年五月党大会に出席したのは、県会議員の中津山富右衛門、湯瀬哲太郎と、同

年二月に議員を退いた佐藤健助であった。佐藤の補欠として選出された小田島由義も改進党であり、翌年部長に

転じている。なかでも湯瀬哲太郎は党内の重鎮と目され、県会ではしばしば常置委員に選ばれ活動した。一八年

一二月から二〇年九月辞職まで県会副議長であった勝又平太郎は、二二年二月一一日帝国憲法発布当日在京し、

大久保鉄作、折戸亀太郎らとともに県人代表として奉祝行事に参加している

『秋田県政

史』上巻

)。この日宮城正殿での

式典には各府県の府県会議長に参列の召喚があったが、秋田県会はその直前一月一六日に解散し議長を欠いて、

たため未曽有の大典たる憲法発布式に参列が許されず、県民ひとしく切歯扼腕した。在京の県人は独自の奉祝行

事を計画し、狩野良知起草の「頌徳表」を奉呈するとともに、九段坂下に集合ののち、七間に五間の一奉祝・秋

田県民」旗を先頭に市内行進を行なったのである。

国会開設を目前にした二二年、政界は政党の大同団結に向かって流動した。六月結党届を出した秋田大同会は

秋田政社と合同し、秋田大同倶楽部として九月大会を開いた。この党は旧自由党・旧改進党系が多く、倶楽部運

呂の中心となる常議員一五名のうちに、鹿角から湯瀬哲太郎が選ばれている。また同年一一月、秋田中正党の幼