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釈迦
党をみているが、党員として鹿角郡小田島由義、勝又平太郎が日景弁吉
)らとともに重きをなしている。
内
中正党綱領第一条に「我党は我が国体を奉じ憲法を尊重し皇室の尊栄を奉翼すること」とあるように、この党に
結集した人たちは旧改進党の右よりの人々と、池田甚之助
仙北郡
高梨村
)のような大地主が多く、保守的な色あいが
濃かった。
わが国が立憲政治、国会開設を実現するに至ったその陰には、はげしい民権運動の曲折があった。本県もその
例に洩れず、民権伸張を図る政党人や有志と、その弾圧を旨とする官憲との相剋関係は、まさに宿命的でさえあっ
た。のちの政友会総裁犬養毅が一六年四月、大久保鉄作らの招きによって秋田魁新報の前身・秋田日報の主筆と
なり、滞在七カ月、民権運動の普及に活動したことはよく知られている。『花輪小学校沿革史』
花輪小学
校所蔵
明治一七年四月「訓導奈良熊太郎本職を免ぜられ、同安保貞次郎辞職願を提出す。これ改進党員犬養毅その他の
政客当地に来り、演説会を開くに当り周旋奔走せしによる」とあることからも、その同調者に対する弾圧の状況
が知られる。
一〇年一〇月、旧自由・改進連合大演説会が千数百名の参加を得て浅草〓遊館で開催され、その責任者は尾去
沢村出身の旧藩士渡部小太郎であった。渡部は青年期に上京し、代言人となって自由党に所属していたが、秋田
県内の民権家とどのようなつながりをもっていたかは判然としない。しかしこの〓遊館における反政府演説会で
『近代秋田の歴史と民
衆』秋田近代史研究会
)に、
官吏〓辱罪に問われ入獄し、憲法発布大赦で出獄している
〓。
)