テキストを表示

ることとし、その選挙権は町村会議員選挙権を有する直接国税年額三円以上、被選挙権は同じく五円以上の者に

与えられた。また名誉職参事会員は、すべて郡会において議員の互選によることに改められた。

その後も郡制は、単なる中間的存在にとどまり、しかも行政機関的性格が強いとして、しばしばその廃止問題

が論議された。三八年の二一回帝国議会に郡制廃止案が提出されたのに始まり、二二回・二三回・三一回議会〓

それぞれ廃止案の提出をみたが、いずれも貴族院で否定され不成立となった。郡制の廃止は、大正一〇年(一九

一一)原敬内閣による四四回議会までまたねばならなかった。

鹿角郡管轄替問題

旧南部領のうち、ひとり秋田県に所属した鹿角郡においては、当初から秋田県治を離れ

石手県に管轄替となることを希望する向きが、無きにしも非ずであった。その心情は、

例えば「明治になって秋田県に編入せられても人々は秋田県と書くのをきらって郵便には陸中国と書いたのであっ

た。今日でも老人のうちには秋田市よりも盛岡市により多くの親しみを持ってる人がゐる」

いったことからも知られる。

佐々木彦一郎『山

島社会誌』・昭六

)と

郡制公布直後の二三年六月、県から花輪警察署長に対し、管轄替問題について調査するよう照会がなされた。

その際「陰密御偵知ノ上、至急御内報之レ有リ度ク」「本件ハ、尤も秘密ヲ要スル儀ニ付、郡吏員ヘハ省議ヲ遂

ゲズ」云々と、内密の調査であることを強調している。これを受けた花輪警察署長は、直ちに毛馬内分署長へ廻

付している。岩手県への管轄替を要望する風説は、多分に花輪よりも毛馬内において強かったからであろう。こ

れに対し毛馬内分署長は、色々探偵を遂げたるもその事実はなく全く無根の風説と思われるとして、次のごとく

回答している。当時の鹿角住民の動向や郡勢を知る上で、興味深いものがある。