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子を掲げている。それによると鹿角郡の献金額がもっとも多い七三三円(九人)で、仙北郡七二八円五〇銭(五
八人)、秋田市五七二円(五〇〇人)といった順でつづいている。
郷土の勇士
石川伍一(
一七年六月、東学党の乱にともなう清国の朝鮮出兵に対抗し、日本は公使館保護を理由に派兵
広島
を決定した。動員令はまず広島の第五師団に下り、部隊は続々宇品
)を出発して仁川に
県
一陸した。七月、日本海軍は豊島沖で清国軍艦を奇襲し撃破した。当時大阪朝日新聞社記者であった内藤湖南は
「石川伍一君伝」(
「鹿友会誌
第五冊
〓)の中で、豊島沖海戦の勝利は実に伍一の諜報によって成るもの、と評している。
慶応一
九)は毛馬内に生れ、父儀平に従って東京に出、攻玉社・興亜黌などに学んだ。一七年上海に
明治二九
渡り、海軍大尉曽根俊虎のもとに清国の国情を調査し、二二年北京公使館付海軍大尉関文炳と謀って、蒙古から
薬
洛陽・長安を経て漢口に達した。かつて上海において岸田吟香の楽善堂
に身を寄せていたことから、漢口
屋
では荒尾精とともに楽善堂支店を開き、商人を装って四川・重慶に至る途々その地理を精査した。二三年一時帰
国したが再び関大尉に従って北京に渡り、軍事探偵の任務を続けた。二五年北京公使館付海軍少佐井上敏夫の命
をうけて活動し、やがて日清開戦により同少佐の帰朝したあとひとり留まり、敵情を偵察し本国に報告していた。
しかし遂に捕えられ、二九年九月天津城西門外に処刑された。
郷土兵士の属する仙台第二師団が中国に渡ったのは、二七年一一月であった。大陸は朔風吹き荒ぶ季節に入っ
たため、寒気に強い東北健児に動員の命が下ったという。以後の郷土部隊の行動について、その一員である陸軍
工兵中尉森内貞次郎の動きを通して追ってみよう。
森内貞次郎(
明治三
同二八
)は平次郎の二男として花輪に生まれた。花輪小学校卒業後東京に遊学し、陸軍幼年学