テキストを表示
夜、陸軍士官学校を卒えて、二五年工兵少尉に任官、第二師団勤務となる。中尉昇任間もなく、二八年一月宇品
杏を出て大連湾に入り、山東角龍髭湾に上陸して後方から威海衛を攻撃した。二月の威海衛陥落の後、金州に渡っ
て鳳凰城に入り守備を布く。三月休戦、四月講和条約ののち三国干渉のため遼東半島返還となる。五月新付の台
湾において島民の反乱が起り、台湾民主国が台北に樹立された。台湾に上陸した近衛師団は一〇日のうちに台北
を占領したが、地元民の抵抗は意外に強く、さらに第二師団と混成旅団の派遣をみる。森内中尉の指揮する工兵
中隊は、悪戦苦闘ののち一〇月二一日台南城に進入した。しかし中尉は不幸悪疫の冒すところとなり、同月三
日城外阿公店において戦歿した
「鹿友会誌
第五冊
)。この戦役で、最も恐るべきはマラリアと食糧の欠乏であったとい
われる。その事実は、近衛師団長北白川宮が悪性マラリアで台南に歿し、兵力五万の内、戦死者一六四人、これ
に対して悪疫による死亡者は軍夫を含めて四、六〇〇人、病気で内地送還された者二万人以上にのぼったことで
も知られる
『日本の歴史〓』大日本
帝国の試錬・中央公論社
)。
『鹿友会誌』(
第五冊、明
治三〇年
母)は、次の勇士の小伝を掲げ、その戦死を悼んでいる。青森歩兵第五聯隊に属して威
海衛攻略に参加し、のち台湾討伐に従い台南包囲戦で戦死した軍曹勝又啓治
慶応三
年生
)、毛馬内の人。近衛騎兵
大隊に属して台湾へ渡り、偵察小隊の一員として台北近郊「バンクイトウ」付近にて戦死した一等卒大越保太郎
明治六
年生
生1)、花輪の人。二七年九月一七日清国大孤山沖の海戦でラッパ伝令の任務中戦死した扶桑艦乗組・四等信
号兵木村熊治一
明治六
年牛
)、花輪の人。ほかに、歩兵一等卒海沼卯之助(
花輪久
保田
)の戦死も伝えられた。また毛馬内
出身で、威海衛攻撃に参加した水雷艇副長海軍少尉青山芳得(
のち
大佐
)、同じく台湾従軍の大尉井上伊太郎の勇戦
(
の模様も後世に語りつがれている(
『毛馬内郷土読本」
『鹿角のあゆみ
)。