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陸軍大臣へ宛てた機密書類には「今般当省ニ於テ満州ニ於ケル従来ノ行政組織、租税額其他一般行政ニ関スル調

査ヲナスコトト相成、秋田県士族内藤虎次郎ニ右調査ヲ嘱託致シ、近々同人ヲ満州へ前往セシメ度候」云々

と認められていた

青江舜二郎『アジマ

びと・内藤湖南』

)。ポーツマス講和後に開かれる予定の対中国会談に有利となる資料が必要

明治五-

であったためといわれ、同行者は花輪町出身の法学士大里武八郎

)であった。一〇月、奉天郊外を視

昭和四七

察中の湖南に対し、清国派遣特命全権大使小村寿太郎の招電があり、急遽北京へ向かった。それより先、アメリ

カのポーツマスで、九月五日日露講和条約が結ばれ、次いで北京においてロシアの利権引継に関する清国との条

約および付属協定などの締結交渉が行われていたのである。これらの交渉がほぼ日本の期待通りに運んだのは、

湖南の調査があったからだ(

青江舜二郎

『前掲書』

)、といわれている。

二九年一月に小村全権大使とともに帰国した湖南は、まもなく、外務省から朝鮮と中国の国境である間島問題

調査の嘱託をうけ、七月、大阪朝日新聞社を退職して朝鮮および中国東北地方を視察し一一月帰国した。この時

φ大里武八郎が同行した。日露戦争前後を通して、初め言論人として世論を高めたが、のち直接戦後経営に中国

問題専門家として参加し、それとともに学者としての湖南の名声も高まることとなった。翌年、京都帝国大学東

洋史学講師として迎えられ、四二年同学教授となり、学者としての真骨頂を発揮することになるのである。

戦中風景

花輪にあっては、三七年一一月、町内の有志に役場・郡役所吏員も加わり、花輪月報会がつく

りれた。会の目的は、もっぱら戦地出征兵士慰問のために「花輪月報」

第二号から「花輪

たより」と改める

)を発

行するにあった。一一月第一号を出し、のち順調に号を重ねて、三九年二月に最終の通信第一六号をもって終っ

いいる。内容は時報・雑報として花輪における軍人の応召やその動静を始め、各町内や市況の様子、学校から花