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柳界に至るまでの各界の動きを、くわしく報じたものである。その記事の中から、戦中における郷土の事情をい

くつか要約してみる。

○近頃郵便物が一日ずつ遅れてくる。その理由は七師団(北海道)の輸送のため、汽車の時間が変わったからなそうだ。

てれで東京の新聞が手に入るのは四日めである。もっとも秋田の新聞だけはその日の夕方にくるが、電報などあまり簡

単でもの足りない。岩手の新聞は秋田より良いが翌朝でなければこない。近頃は青森弘前から号外を持ってきて売る者

がいる。一枚二銭の相場である(第一号・三七年一一月)

○当地出身の入営兵を歓送するとて、親族、知己、有志、官吏、生徒、教員、僧侶まで、朝早くからどよめき「送某君入

営」などと大書した旗が風に飜り、老若男女重箱を携え祝樽をかつぎ、下夕町のはずれ小坂森まで、その先は神田平ま

で、続々と見送りに行く。役場員、婦人会員らは下夕町はずれで祝盃の上、奈良

)町長の音頭で万歳を三唱。神田

平は全郡の入営兵が集まる所なので、広い野原も肩と肩がぶつかり献酬乱れあい、実に盛大である。入営兵はいずれも

意気盛んに、いずれも快活に振舞っている(第二号・三七年一二月)

○花輪恤兵会は、町内一ケ月二銭の株一、八〇〇余を募って結成され、出征軍人家族保護活動として、地租一〇円以下の

家族の一五歳未満・六〇歳以上に限り一日一人三合の白米を給すること、農家については耕作一般の手伝いを行うこと、

鹿角医会の好意により無料の診察施薬を行うこと等を定めている(前掲号)

○旅順陥落の知らせが伝わったのは二日の夕方、各戸皆提灯を掲げ歓声をあげた。四日消防の出初式で、夜は消防並びに

有志の提灯行列があったが、五日本式の祝捷会となり、昼は高等小学校で祝捷会を開き、するめとリンゴに酒は一合ず

つの立食であったが、それでも五〇〇人程の盛会となった。夜の提灯行列は、前の遼陽勝利の時にならい新田町集合、

ここから横丁を先頭に町の順序によって列を整い、役場の高張一対、次は楽隊を客馬車にのせ人足にひかせての奏楽

続いて大灯籠を立てた三六会の面々、横丁・新町は七夕の提灯、大町は白地に赤線二本の特別誂えの提灯、谷地田町は

国旗形の角灯籠、六日町は燈灯、総勢かれこれ二、〇〇〇余人が二列縦隊で繰りだした。行列のほかに各戸いずれも提

灯を掲げ、全町さながら不夜城の如く花輪開闢以来の盛事とみえた。下夕町の橋から廻れ右、帰りは横町に入って役場

の前で万歳三唱し、解散した(第三号・三八年一月)(