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五人、七滝村六人、計六一人。(第九号・同年七月〕

○去る一一日花輪小学校同窓会来賓として出席した河野郡長は、本郡の後援事業を次のように演説した。開戦以来の出征者

は一、〇〇〇名に近く、現在まで病死一一名、戦死五二名、負傷九七名を算している。八月一日迄の後援概略は、団体よ

りの援護二、一五六円一九銭九厘、個人よりの救恤六、六四八円五六銭と白米一〇石七斗八升、労力扶助三四九人、団体

による弔慰金一四四円二三銭五厘であった。出征軍人家族援護会では四、〇〇〇円の寄附金により、或いは生産扶助或い

は遺族困窮者に二〇円乃至四〇円の救護を行ない或いは香奠など合せて三〇〇余円を支出している。また本郡はアケビ蔓

が豊富なので、援護会が軍人家族その他希望を募り、弘前方面より教師を招いて来る一〇月より六ケ月間蔓細工の伝習を

行う予定である(第一〇号・同年八月)

〇八月三一日、長年寺角奈良書店に大館から「コーワナル二三ヲクヒョウトカバフトトル」と飛電があり、同書店では早速

一講和成ル二十三億ノ費用ト樺太取ル」と発表した。町民はその上首尾に驚きかつ大喜びであったが、午後秋田魁新報の

号外が舞いこみ実際は償金は二億内外、樺太は半分だけで、前電の「二三ヲク」は二、三億位という意味と分り、政府を

馬る声がしきりであった。その後ますます条件が縮り二億さえ覚束なくなったので、今は憤る元気もなくなった(第一一号

同年九月)。

日露戦争は、わが国が興亡の岐路に立った一大難局であったが、首尾よく戦勝の結果を得た。やがて戦後の経

済復興の時期に入り、鹿角の村々でも水田の耕地整理、乾田馬耕等農事改良の事業が盛んに行われるようになっ

てきた。