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三八・五・二七花輪町で大火、新田町、舟場通、六日町、谷地田町に類焼、長年寺角で鎮火、一三四戸全悔
二九・六・二二大湯村中町、丁内大火で五二戸焼失、大湯村役場類焼
四〇・月日不詳米代川流域(花輪町・曙村・宮川村・錦木村・毛馬内町)及び熊沢川流域(曙村・宮川村)で水害、
堤防決壊五〇間、道路決壊一一間、橋流失四、水田流失、崖崩れ等被害額千八百円以上
四二・四・二六大湯村で大火、川原ノ湯、上町で五七戸焼失
四二・一〇・-大湯不老倉鉱山で大火、長屋八棟、三七戸焼失
初期の医療
明治に入っても、なお一般庶民の衛生知識は幼稚で、病者の多くはもっぱら呪いや神仏にすが
り、護符・神水の類に頼るほか、なすすべを知らない状態にあった。漢法医の数も少く、治療
を乞うことのできるのは士分や富裕な階層に限られ、庶民はほとんど医師の手にかかることなく、あるいは危篤
に陥ってから形だけの往診をうけ一生を終えた。
三、四年には、鹿角は江刺県の治下にあったが、前年の凶作に引続く物価の高騰に、庶民の生活は窮迫をきわ
めていた。江刺県花輪役所は、三年四月毛馬内町の町医后安が窮民の施療方を志願したとして「貧究の者疾病に
相掛り候ても薬用及び兼ね、薄命に至り候もの少なからず、実に憫然の至り見るに忍びず、(略)病気にて難渋