テキストを表示

の者は后安方へ罷り出で、療養致す可きもの也」と、村々の役人へ達している

)。この無料

明治三年『御用留』、鹿角)

而史資料編』第十六集所収

施術が毛馬内通だけだったか、全郡におよぶ組織的な施策であったかについては明らかでない。

五年九月秋田県は「病院を置くは疾病の医療人身の最養欠くべからず」との布告を発し、翌六年大湯村をはじ

め郡内村々を権大属乗付弘らが巡視し、学校病院設立についての説諭を行った。折から鹿角郡では旧藩時代に課

されていた雑税が免除されたので、県ではその免除額の半額を学校・病院経営の資本金に充てようとした。三ケ

出村ではこの「学校病院資本金」を、高百石につき五七貫八七三匁の賦課と、そのほか花輪通の各村々からの寄

附に頼ることとした(

『三ケ田村下タ帳』

阿部ウメ家文書

)。しかしこの病院設立については結実をみなかった。

八年八月秋田県医則が公布され、医師に対する免状もしくは鑑札の交付、医師以外の医療行為の禁止によって、

県の医療制度は新しい一歩を踏みだした。当時県内の医師は五四〇余名であったが、鹿角の医師の実数は明らか

でない。

医師会以前

花輪村には一六年に村医が置かれ(

一六年度『花

輪村予算書』

、一七年度村会日誌によれば柴内村にも村医

が置かれていた(

佐藤与

『柴平村誌』

。当時町村では必要に応じ、貧民救療、伝染病予防、種痘実施

などのため町村医を置くことができた。

大湯村では二二年以降村医を置いていたが、将来村医となる人材育成のため三四年「中学校へ入学将来医師とな

るべきもの」に補助金六〇円を臨時支出している。この補助金はその後教育将励費として、三八年村医とすべき中

学生に六〇円、四〇年村医とすべき学生に八四円を臨時支出して、村民の中から村医を養成しようとつとめていた。

なお大湯村では医師に対する薬礼は、これまで盆、暮れの

)節季払いを慣習としていたのを改め、二八年三