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産婆制度があった。二七年以降、錦木村の産婆は次のとおりであるが、三五年以降四年間は限地開業であった。
「『錦木村誌』から)
なお三四年一〇月、県費留学生として東京産婆学校を卒業した六名中に、鹿角郡佐々木きぬの名がある
『秋田県婦人
『秋田県婦人)(
〓
)
)。
生活記録史』
看護婦
)。
二六年四月郡役所から看護婦養成の委託をうけ、大里文五郎がその診療所内に養成所を設けて
組織的教育を行ったのが鹿角における始まりである。この時は外来患者を利用して実地看護法
を授け、同年八月一六名の卒業生を出した
前掲『大里文五)
郎先生略年譜』
)
医師法改正により医師の介補の任にあたる看護婦の養成増員は急務であったが、看護婦の制度化は産婆のそれ
より遙かに遅れ、法的に資格の公認される看護婦規則
が制度化されたのは大正四年であった。
鹿角における看護婦は下の表のとおりである。
(『郡統計一覧表』から一
伝染病
一二年熊沢村に腸室扶期流行、患者百数十名、死者六名、三四年郡内に赤痢流行し、患者三〇
○名以上など、伝染病流行のため郡民はいく度も苦い経験をつんだ。