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千円をかけ改修するという事業に対し、半額を補助するという計画であった。翌四四年通常県会では、四五年度

予算に前年より継続の十和田道路改修補助を計上している。また四四年一一月の新聞は「本月六日開会の鹿角郡

会は(中略)郡債借替(十和田街道開修費補助金)の件は二名の反対者ありしも大多数を以て原案に可決せり」と

報じている(

)。

秋田魁新報・明治四四)

年一一月一七日付

同年の『鹿友会誌』(

三冊

)には「十和田湖の近況」と題して、和井内貞行が次のように寄稿している。

妹に小坂大館間の軽便鉄道開通以来、一層遊客多くなりたれば、秋田県庁に於ても今や不問に致し難しと見え、毛馬内

町より大湯温泉間の新道開鑿に着手して、馬車人力車等の往復を便ならしむ。大湯温泉より十和田湖に致る道路開修丁

事も又同じく着手する事となり、何れも明治四十五年迄継続落成の筈なり。内毛馬内十和田間は、馬車人力車の通行に

差支なきが如し。

四四年一二月には大湯村長から県に対し、大湯中之橋の架橋申請が出されている(

明治四〇『来満街道改修工

事実施設計』秋田県庁所蔵

)。

大湯中町と上町の新規架橋が十和田道路の分岐点に当たるので、他県人への体面もあり、土橋の計画を高欄付板

橋に変更することを願ったものである。この願が承認され、予定よりも遅れて翌年四月に竣工している。

藩政期において、毛馬内通濁川村と南津軽郡碇ケ関村を結ぶ濁川道は、いわゆる間道であり藩

濁川街道

の公認したものではなかったが、古くからの要路の一つであった。

現鹿角郡

その道筋は、毛馬内の仁叟寺前で来満街道から分岐し小坂村一

)を通り、北上して坂梨峠を越え碇ケ

小坂町

関村に達する。濁川街道という名称は、明治期に入って地方税支弁の道路

に指定されてからのものと思わ