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荷車・荷馬車

鹿角に荷車・荷馬車の導入された時期は、明確でない。荷車はその荷台の長さによって、大

)。

六車から大十車(六尺から一丈)などがあった。一四年の地方税領収書の中に「大六荷車」

と記されたものが見える(

中嶋

家文書

荷馬車については『見聞雑誌』二〇年七月六日条に「本日爰元まで馬車初て来り」の記事がある。単に馬車と

あるものの、客馬車が鹿角でみられるのは三〇年代になってからであり、ここでは荷馬車が尾去沢へ初めて来た

ということであろう。荷馬車の普及は、道路の整備にともない二〇年代から増加していった。大正元年の統計に

は、鹿角郡全体で荷積車一〇六、荷積馬車二〇五とある一

『大正元年秋田県

鹿角郡勢一班』

)。

なお人力車及び客馬車については、第四章第六節・文明開化の項に述べている。

三、鉄道敷設の請願

請願運動の進展

明治五年、日本において初めて新橋・横浜間の鉄道が開通し、新しい時代の幕が開いた。

以後、産業の発達の上からもその必要性が増大し、各地に鉄道建設の計画が起こった。し

かしその費用が膨大であるために、敷設は必ずしも順調に進まなかった。

鹿角を経由し、大館から盛岡へ達する鉄道敷設の最初の請願は、一七年に行われた。『大館戊辰戦史』のなか

に「大館盛岡間鉄道敷設請願の始末」として「本鉄道敷設の請願は、明治十七年伊藤鑑幸等が濁川新道開鑿を非

とし、本県県令に建議したるもの」との記事がみえる。