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一方、一五年には日本鉄道会社が東北線の建設に着手し、二三年に盛岡、翌年には青森までの開通をみた。奥

羽線は二六年に青森・福島間の起工が行われ、三八年にその全線が開通した。

このような動きのなかで、鹿角においても『見聞雑誌』二二年七月一九日条に「本日知事公御着きの由、(中

奥羽

略)山形県より青森県への通路鉄道

)設置の義に付、鹿角郡に発起人を設ける御諭達あって、毛馬内の豊

口(

竹五

〓)、大湯の諏訪善兵衛、花輪の吉田清兵衛の三氏撰まれたり」とあるように、鉄道開通への波が次第に

及んできたことが窺われる。三〇年になると、政府が盛岡市における私設鉄道(大館・好摩間)の計画を許可し

て仮免状を下附したが、しかし工事の着手には至らなかった(

『鹿友会誌』

第一三冊

)。

その後三三年の第一四回帝国議会において、衆議院では鉄道法改正法律案の提出にあたり「秋田県下大館より

岩手県下好摩に至る鉄道」を挿入して可決し、これを貴族院へ回したが会期切れで通過には至らなかった。

その翌年、鹿角・北秋田両郡郡民と盛岡市とが提携して、帝国議会に対し大館・盛岡間鉄道敷設の請願書を提

出した。この中で、鉄道敷設を必要とする理由を二つ上げている。第一は林業・鉱業を中心とする産業の向上、

第二は国防上

軍用

鉄道

)のためであるとしている。

しかしこの請願運動は、日露戦争のために一時中断しなければならなかった。

鹿角鉄道敷

設の運動

鹿角鉄道一

大館盛岡

間の鉄道

)敷設の請願は、四三年から毛馬内町長・大館町長および盛岡市長名で

帝国議会に対し再三にわたって出願されている。四三年五月から九月までは、鉄道院臨時線路

調査員が派遣されて全線を測量している。

この間、周囲の事情も変化しつつあった。四二年には小坂軽便鉄道が、大館・小坂間に開通した。また東北線・