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奥羽線を結ぶ横断鉄道の第一線は、横手から黒沢尻間
現在の
北上線
)に決定していた。大館・盛岡間の鉄道は、奥羽
第二横断線と格付けされている。
四四年に帝国議会に提出された請願書には、それまでの経緯や鉄道の必要性が詳しく述べられている。その中
で路線については「奥羽北線大館駅を起点として、鹿角街道に沿ひ秋田県下扇田、十二所、錦木、花輪、湯瀬を
経て岩手県下津軽街道に出て、田山、松尾、好摩を過ぎ盛岡駅に達する」と記され、これは今日の花輪線と同一
のものである(
『大館戊
辰戦史』
)。
この請願には鹿角選出県会議員の積極的な運動があり、幸いにこの年の帝国議会では両院とも無事通過をみた。
その後具体的な動きがないので、四五年に再び請願書を提出して「国力の充実は東北の宝庫を開発する、また其
の一たるを失はず。而して其の開発は大館盛岡間の補助線を敷設して、東北産業に資し貨物集散をして真に経済
的効果を収めしむるは、蓋し国家の緊急問題なりとす。是れ本願を提出する所似なり」と結んでいる。
軽便鉄道の免許
雨願運動は一定の成果を収めたものの、国有鉄道として敷設する見込みはきわめて困難な
ものであった。そこでその先行的事業として、大正元年八月三〇日付で「軽便鉄道開業免
許」を得て、秋田鉄道株式会社を設立することとした。これは主として、尾去沢鉱山の物資輸送を目的として創
立されたものであった。大正元年九月五日付の秋田魁新報は「尾去沢の軽鉄」と題して「鹿角郡尾去沢鉱山にて
専用する同地及大館間の軽便鉄道は、秋田鉄道株式会社といひ、発起人は山長近藤修孝氏外八名にして、蒸気鉄
道、軌道幅員は三呎六吋、延長十六哩五十鎖、百万円の資本なりといふ」と記している