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二、養蚕

養蚕の振興

鹿角の養蚕は明治以前から行われていたが一

松浦武四郎『鹿角

日記』嘉永二年

)大規模に進められるようになっ

たのは、やはり国の殖産興業政策が浸透してからである。しかし急激な変化の中で、様々な問

題も起こっている。

例えば明治三年五月、江刺県花輪役所へ毛馬内町の検断から提出された歎願書には、明治初期の養蚕事情が描

かれている

「毛馬内通箒畑村大湯村御山処桑ニて

養蚕歎願書」松宮氏蔵岩泉家文書

。その内容は、毛馬内の者共は箒畑・大湯の山桑を使っての養蚕

を認められてきたが、この頃棒を持ち覆面をした悪者共に桑を奪い取られるという事が度々起きた。これは最近

帰農した大湯の者共のしわざであり、なんとかしてくれる様にと願い出たものである。この争いの原因は、不安

定な時勢の中で生活を維持するため養蚕を行い、桑を植栽するいとまもなく手近の山桑を求めたためであろう。

このような桑の不足は鹿角だけでなく、県は五年四月一二日に「養蚕振興のため県民の希望者へ桑苗木の無

茶・楮・

代下渡」を実施し、また同年五月には四木

)三草

紅花・

藍・麻

漆・桑

)の保護令を公付している

『秋田県史資

料・明治編上』

また六年五月には、蚕卵紙の生産増強を図って県下二八名の有力者を蚕種世話役に任命した(

『秋田県

史年表』

)。鹿角

では毛馬内村・太田左吉が命ぜられている。

)。

鹿角

毛馬内村太田左吉

右ハ生糸並繭真綿等売買取締人ニ任命せらる。同規則により検査を行う。

この時期、生糸は「我皇国第一の物産にして上は邦家の隆盛…、下は各自の利益を得」(

明治七年九月県告諭『秋

出県史』資料・明治篇