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というように、輸出のトップを占める産物であった。それだけに国や県も指導・奨励に尽力したものであろう。

県ではその後も度々告諭を発して増産を奨励し、かつその統制を図っている

明治初期の毛馬内村における養蚕の状況について、次の記録がある。「明治十一年の村誌

毛馬内の養蚕業

音上に依れば、第二大区第七小区毛馬内は、戸数総計五百二十二戸(瀬田石村岡田村を含

まず)があり、民業として男農を業とする者三百戸、商を業とする者百七十戸、工を業とする者三十戸。女農を

業とする者三百口、縫織紡績を業とする者五百五十七口、内養蚕兼業者三百口」「女子の縫織養蚕の業は非常に

盛んであった」(

伊藤良三著『毛

馬内郷土史稿』

「という。この数字からして、農商にかかわらず、旧士族も含めてさかんに縫織

養蚕を行なっていたと思われる。前述の一一年の女工場の設立もそのあらわれで、「明治二十年前後には勧業熱

が勃興したようである」(

『前掲

書』

〓)とされている。

化輪では、明治中期頃に尾去沢の高杉重五郎が長機織座を設けて宣伝した

宮城一杉著

「花輪町史』

といわれ、新しい機織

機が普及しだしたことをうかがわせている。

こうした中で、一九年六月、毛馬内に蚕糸業組合が結成され、その事務所が設置された。

今般本県第四号布達に基き鹿角郡毛馬内蚕糸業組合事務所設置致し度き旨、該規約草製御裁可の儀上願仕り候ニ就ては

不日御認可相成る可くニ付、尚公然御届申す可く候得共、取敢えず御届に及び候也

毛馬内蚕糸業組合員大里已代治

明治十九年六月十六日

秋田県蚕糸業取締所御中

(『毛馬内郷土史資料・明治時代の部〓』)