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館主千葉某が、鯉の親魚と稚魚を牛二駄で大湯から運び放流。二〇年夏には三浦泉八が小川原湖からフナとシジ
ミ貝を運んで、宇樽部前浜に放流している(
以上前
掲書
)。また一六年には魚道開鑿のため、和井内貞行・飯岡政徳・
三浦泉八が願書を青森県庁に提出した。同一八年に農商務省や秋田・青森両県の係員の派遣があったが、結局却
下されている。
これらの人達は、三浦泉八のように十和田鉱山へ薪炭・食糧等を宇樽部からキッチ(丸木舟)で提供すること
を業とした者、十和田鉱山長の飯岡政徳など、十和田湖に直接かかわりを持った者が多い。和井内貞行もまた十
和田湖の居住者であった。これらの人々には、増加した十和田湖居住者の生活を支えるという必要感が、その根
底にあったであろう。
一方、別の立場で養魚を試みた人もいる。秋田魁新報明治二六年九月六日付に「十九年秋、鹿角郡長小田島由
義鯉児の放流を試み、加ふるに前有志者(
和井内・飯
岡・三浦
)に於いても鯉児・嘉魚等を放流せしに生育頗る著しく」云々
の記事がある。鹿角郡長としての小田島由義は、前記一八年の国・県の十和田湖への出張を知る立場にいたわけ
だし、もしかするとこの出張に同行・参加したことも想像される。魚道開鑿却下という状況の中で翌年郡長とし
ての放流が行なわれたわけで、これは和井内貞行等への協賛・協力といった意味合を持つことになろう。ただし
『花輪
この年号は、諸書に一七年(
『鹿角郡長小
田島由義伝』
)、一八年(
「ともあり、一定しない。いずれにせよ鹿角郡長の放
町史』
流は、行政者としての立場から一歩踏みこんで、十和田湖養魚に一臂の力を借したものと思われる。当時の急務
であった殖産興業に、郡長自身が積極的な援助を試みた一事例とみてよいであろう。