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は大小となく鯉の水族繁殖を見ること非常なり。右に付き湖辺居住の人民永遠の利害を顧みず、徒らに捕獲する

者往々これ有り」(

)という有様で、青森県庁への願出により巡査が派遣される程であった

秋田魁新報・明治

二六年九月七日付

貞行は魚族の絶滅を避けるため二三年八月、湖水面の借用と養魚実施を出願し、二四年には青森県知事、二六

年には青森・秋田両県知事の許諾を得て、養鯉に一層の情熱を傾けることとなった。そして二九年に鉱山を退職、

湖畔での養魚に専念した。古い商家を求めて養魚の根拠地とし、一方で十和田湖の風光を紹介・宣伝するための

文書を作り(

明治三

○年

)、銀山の湖岸に旅館「観湖楼」を建設するなどしている。

姫鱒の放流

しかし養鯉は順調には展開しなかった。鯉は冬は湖底に潜って捕獲が難かしく、そのため一年

を通じて漁業が出来る鱒の養殖と孵化場設置の計画を立てた。三二年には当時一六才の長男貞

時を各地の先進地へ送り、研修させている。この年には奥入瀬で採卵孵化した川鱒の試験放流を行ない、翌三三

年には一家の命運をかけて日光鱒の稚魚三万五千尾を放流した。

方従来の懸案であった魚道開鑿も、二六年の関係六カ村の協議、承諾などを経てようやく許可がおり、三一

年に着手したが結果は裏目に出た。遡上した魚以上に湖に放流された魚が下流へ逃げ、しかも長い間の養殖で〓

帰性を失なっていた鱒は、湖へ帰らなかったのである。

このような労苦を続ける中、貞行は北海道阿寒湖のカパチェッポという姫鱒に望みを託し、明治三五年一二月

にその卵を移入した。翌年の春孵化し稚魚となった五万尾のカパチェッポは、湖に放流された。そして三年後の

二八年秋、初めて回帰してきた姫鱒の影を見ることができた。貞行四八才、養魚に手を染めてから二二年を経た

現和

時のことである。この成功により貞行はさらに事業を拡大し、同年生出

井内

)に孵化場を建設した。