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なお村鑑帳の今も残っているのは、長嶺村(
阿部
家文書
〓)新斗米村・小枝指村(
倍賞
家文書
)、冠田村(
曲田慶吉『鹿角
郷土誌』所収
)、
松山村(
駒ケ嶺政相編『松
山村郷土誌』所収
)などの分である。これらの村鑑から、村々が近世から引継いできた生活共同体として
の営みや、自給自足的な生活の実態が浮かび上ってくる。
大湯村
〓
開墾の進捗
明治に入って、政府は士族授産の目的から荒蕪地の開
)のな
第2図開墾世話方の辞令
(諏訪家文庫)
墾と帰農を奨励した。鹿角郡は藩政期から新田の披立
てが相次いでいたが、政府の開墾将励の達は既に二年から出されている。
例えば三年三月、花輪南部氏旧家中八名が江刺県花輪役所民政掛に提出
した「鹿角郡三ケ田村花輪村鏡田村柴内村畑返披立願書」
川村
家文書
かに、慶応三年から取り懸っていた四カ村の畑高四八石余を畑から田へ
変えるための普請を御一新以来ひかえていたが、昨年土地開墾将励の達
があり、有難き次第なので再び普請を続けたい旨を述べている。なおこ
租税
の出願は、藩政期慣例の免地一
)などを希望条件としていたため許
免除
可にならなかった。
またこの時、主な村々に開墾世話方なる役方が置かれている。明治
年毛馬内『御用留』によると、七月に内藤調一が毛馬内通土地開墾御
用掛に、検断忠太郎が毛馬内通村々開拓処世話方井開墾地分配取締に、
毛馬内町喜三治・万谷村万太が毛馬内通村々開拓世話方にと、それぞれ