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田の造成であった。三年二月に江刺県花輪役所民政懸に提出した大湯村開墾世話方諏訪諒平・千葉祐司等の畑返

新田の願書は、大湯村内野八四反程、中通平(

倉沢村・宮野平村・

風張村・一本木村

)一七五反程を始め中折戸・箒畑・堀内・関上

大川原・古川各村におよぶ三五五反歩の大規模な計画であった。この大湯における畑返開田はその後中断し、結

局中通平に通水し開田の実現をみるのは昭和初期に入ってからのことである。

このような畑返開田は毛馬内町の上野平においても試みられていて、次の新聞記事がある(

秋田魁新報明治二

二年三月二二日付

)。

)

鹿角毛馬内通信

當町近郊東北隅に方り一大丘あり字上野と云ふ、水利に乏しくして古昔より全丘数百町の畑となー

りしが、三十餘年前當町人似内某なる者此地に大湯川を引て畑返しするの計画をなせしも、時機未だ至らざる内空しく

黄泉の客となり、地方人民の憾を抱き居る所なるか、今何の幸ぞ青森県三戸町の豪族松尾藤平氏事故ありて一昨年より當

町に滞寓ありしが、今回奮起して起業費金中幾分の一萬餘圓を先づ自ら投じ、此地に水を引き田畑成に開発するの計策を

なし明細なる規約書を調製し、地主数百名を一堂に集会せしめ協議を掛けしに、其過半は大賛成のよしなれば詰まる處は

起業に至るべし、猶追て議決の上は解雪を待て直に着手するよし、此一大事業にして成功すれば當地方人民の公益漸々増

進すべし。

この大湯川を引いての上野平畑返開田は、その後どのような経緯をたどったものか、結果として実現には至っ

ていない。同様の事業は郡内のあちこちで行われていたらしく、新聞に「鹿角近傍へ近頃実業に心を専らにする

もの輩出し、荒地川布残るくまなく皆開きて田とし畑となして、利益を挙くること少なからず」

秋田魁新報明治

七・六・八付

といった記事もみえている。

既に、藩政期の文政八年(一八二五)に着手したと伝えられる菩提野の穴堰開鑿は、維新後しばらく中断の後

明治の中ごろに再び復興の運びとなった。初め一四年に尾去沢鉱山槻本幸八郎から戸長児玉正次郎にこの事業の

継続申込みがあったが、村民の激しい反対にあって立消え、二二年に至ってようやく札幌市の早川長十郎と工事

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