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の換金作物栽培すなわちその商品化はまことに微々たるものであったといわねばならない

また明治期全体を通じての農産物作付の推移は、左の第4表によっておおよそ知ることができる。

まず水稲の作付面積では、二〇年三、五七三町歩が四四年三、七六九町歩と一九六町歩の増加となり、それだ

け水田面積がふえたことをあらわしている。陸稲は現在と違い、全く作付されていない。普通畑作物として、麦

類の栽培は殆ど行われぬに等しく、大豆と粟が卓越し、稗と蕎麦はこの表でみる限り漸減の傾向にある。特用作

物としては、大麻を除いてみるべきものがない。後半には、桑園の増加が著しくなる。前表にみられないいわゆ

第五

る野菜類については、『秋田県鹿角郡統計要覧』によって知ることができる

)。

野菜類のなかで、とくにだいこんの収穫の多いことが目立っている。だいこんは用途が広く、干したり漬けた

人糞

り冬季の貯蔵用として需要が多かった。当時の農家は肥料にもっぱらジキと称する下肥(

)を使用し、商家

尿

や鉱山住宅と便所の汲取りを契約してその見返り

にだいこんを供給するということが一般的であっ

た。曙・宮川・柴平は花輪・尾去沢へ、大湯・錦

木・七滝は毛馬内・小坂へとその結び付きが強かっ

た。中でも大湯・草木は不老倉鉱山隆盛時の食料

供給を一手に担っていた。錦木の大欠地区は、藩

政時代からにんじん・ごぼう等の産地として聞え、

第4表明治二〇~四四年鹿角郡の農作物作付反別の推移

(『秋田県史第五巻』から

大館方面へ移出する程であった。