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その頃の畑作物の種類は雑穀類を除いてはまことに少なく、同書別項の「柴平物産表」明治二八年一二月調〓
掲げられているものは大豆、小豆、蕎麦、粟、馬鈴薯、大根、菜物だけに限られている。この傾向は同じ年代の
『鹿角郡大湯村誌』(
年
二七
)における「物産ノ概数」の項でも、畑作物として僅かに大豆、粟、蕎麦、黍、蜀黍
菜種、大根、苧麻があげられていることと、ほぼ軌を一にしている。
馬耕の伝習
明治農業における技術改善の新しい波の一つは、乾田・馬耕法の普及であった。一一年から県
庁が政府から西洋農具
プラウ・ハ
ロー・牛馬具
民)を借用し、勧業場や民間希望者に貸与したのが始まりで
ある。本県では幕末から明治初期にかけて水田の代〓きに馬を使うほかは牛馬耕の慣行がなかったものとみえ
県勧業係員の意見に「耕勅法の如きはこれに牛馬を使役するということは未だなく、人々自ら鋤鍬を把って耕軸
し、一日漸く六、七畝歩を耕すに過ぎない」とある(
明治一三年「秋田県)
勧業月報」第二号
○同様のことが第四回種苗交換会におい
毛馬
て、談会会員の高橋嘉六(
)より「田は三本鍬で打ち、さらに馬で〓くか、あるいは踏ませれば砕土にも保
内
水にもよい」(
『秋田県種苗交
換会史』明治編
「と報告されている。洋犁の普及はなかなか進まず、二一年になっても「秋田県農
事調査」に、本県では田畑墾起耕耘等に一切牛馬耕を使用することなし、と表現される程であった。
その後、本県稲作の最大課題である腐れ米改良とのかかわりから、二三年に使用法の簡便な和洋折衷の型が道
入され、翌二四年勧業課馬耕教師の指導が始まったことから次第に普及した。馬耕は一日平均三反歩、人耕の六
人分といわれ、種苗交換会の一等賞品が二三年に簡易一頭牽馬型一組、二四年に単柄犁一台・二六年に三本鍬・
砕土
馬耙(
等であったことも、馬耕奨励にむかう世相の一端を示したものといえる。なお馬耕法と並行して乾
用
田法による米質改良試験の委託が行われることとなり、二四年農業委託試験委員として鹿角から中津山延賢、安