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手厚い饗応をしたというから、いかに県・町村や地主の人々が馬耕の普及に大童であったかが知られる。

馬耕伝習会はその後も続けられ例えば四一年には曙・錦木・宮川三村で各七日間ずつ行われているが、その普

及効果は思うようにあがらなかった。四四年度『事務報告書・花輪町役場』をみると、勧業・乾田馬耕の部に、

同町の農家四七三戸のうち乾田実施戸数一三一戸(二八%)、乾田反別は九四町(一九%)で、乾田実施に関し

予期したような結果が挙がらず、本年からは極力強制的に実施を計ることとした、とある。馬耕は、乾田所在部

落のうち田八町六反、畑三町二反に実施、また普及のため馬耕伝習会を催し、郡主催馬耕競型会で八名の競型者

が受賞したことをあげている。なお同町の馬耕実施反別は翌大正元

七・三〇

改元す

)年に、田六二町・畑三三町と増

加している

花輪町「事

務報告書」

)。

牛馬耕の全県的な普及状況からみると、明治末期の四四年において鹿角郡は最下位にとどまり、実施面積はわ

すかに田一七六町(四・四%)・畑一二三町(三・五%)で、田における平鹿郡の七七・九%を最高に、山本郡

一五・四%、北秋田郡二二・一%等に比して、その劣勢がきわだっている(

『秋田県史』第

五巻・五二一頁

)。

なお二九年の農業委託試験として毛馬内で稲作過燐酸石灰・鯡〆滓試験、宮川村で稲作一歩(坪)株数試験

大小豆種類試験が行われている。乾田化の方向とともに金肥の種類もふえ、魚粕のほかに化学肥料が使用され始

めていた(

『秋田県史』資

料・明治編下

)。

農会・三県令

二〇年代に入ると、国の農業政策は具体的な目標の下に積極的な展開をみることになった。

すなわち三二年の耕地整理法公布とそれに続く農会法公布、三三年六月の産業組合法公布、

次いで三六年一〇月農商務省「農事改良諭達」による一四項目の農事必行事項の明示などである

次いで三六年一〇月農商務省「農事改良諭達」による一四項目の農事必行事項の明示などである。