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秋田魁、三九

秋田魁、三九

・八・一四

・八・一四

新聞(秋、四九

戦後における農事必行事項の実践状況をみると、稲架は古来からの慣習もあって、毛馬内以北に本鳰の一部〓

)となった。

た。

残るほかはほとんど用いられており、その反別は三、二六二町歩(

大正元年「秋田県鹿角郡

勢一班」、以下同書による

堆肥舎は、強制的な管理規則によって一時三、四〇〇棟余とほとんど全農家に設けられたが、その実態は堆肥

の切替えができず、乾燥して使用に堪えない一時的なものが多かった。その後の切替え指導の励行により、大正

元年末には完全に近いもの六四四棟、不完全だが供用できるもの四八二棟、合計一、一二六棟をかぞえるに至っ

乾田の実施は、一般的に田地の地下水が高いので相当な困難さをともなったが、暗渠排水の奨励によってその

実施面積は一、四二二町歩に及んだ。また馬耕は伝習会や競犁会を開いてその普及に努めていたが、湿田のまま

ではいかんともし難く、土地改良の進捗にまたねばならなかった。その実施面積は、田三五三町歩、畑二〇六町

歩にとどまっている。

一方種籾の塩水選は、町村費の補助による塩の下付と共同実行で成果をあげつつあった。稲苗の正條植は、花

輪町役場『事務報告書』

四五

年度

)の勧業の項に、四四年に初めて実行させたので奨励にはなはだ苦心したとあ