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五、果樹

鹿角りんご

花輪の女森に初めてりんご園を開いた佐藤要之助が、最初のりんご東京移出を実現したのは、

一三年秋のことと伝えられる。この出荷は鹿角郡内のりんご栽培発展の大きな契機をつくった。

なおこれを二六年とする説もあるが、要之助は二五年一〇月病没している。『花輪町史』にいう、二三年秋初め

リンゴの

て赤龍(

の)を馬で盛岡を経由して一ノ関まで運び、東京へ鉄道輸送したとの説が正しいと思われる。

品種名

その成功を見て、二七、八年には吉田五郎、奈良庄兵衛、村山元司、佐藤武八郎、兎沢徳蔵、金沢元祐、瀬田

石勝治等、りんご園を開く者が続出した。当時の新聞広告には、既にりんご苗木の頒布が掲載されている。盛岡

果樹協会の広告一

秋田魁新報・明治一

七年三月三一日付

)によると、魁・成子・晩紅鮫・赤龍・満紅・柳玉・晩成子となつかしい名の

品種がならび、一〇〇本につき上々六円、上四円五〇銭、中三円五〇銭、下二円と表示されている。

初代会長

二九年、花輪にはこれらの人々による果樹協会(

が、毛馬内には横田冨蔵、高橋宇平、高橋嘉六、

吉田五郎

中津山延賢、奈良佐太郎らにより鹿角産業会が結成された。目的は、りんごの栽培技術の研究、病虫害の予防駆

除、移出販売の共同化などに組織的に当たることであった。その結果、三〇年から大正五年頃までの約二〇年間

は鹿角りんごの全盛期ともいわれ、三〇年は六三町歩・樹数一万五、四〇〇本・生産高六、七五〇円であったも

のが、三八年に至り一五〇町歩・約三万本・二万円以上、さらに四四年は二二四町歩・五万本・八万円に上った

『鹿角郡産

業調査書』

)。

鹿角りんごの特色は、肉質が緻密で糖分が多くかつ長期の貯蔵に堪えうる点で、まさに天下一品と称されたの