テキストを表示
○本年は豊作と農家の喜び一方ならぬに、ひとり尾去沢鉱山の流毒を潅漑する田圃は稲根腐蝕し収穫覚束なく、被害者
同は去る一四日大挙して鉱山に押寄せ、目下厳重に談判中である一
同、四四・
八・一九付
)。
○一四日、鉱山では山長不在のため二日間待ってほしいとのこと故、正直な被害民はそのまま引取ったが三、四日経って
も何の便りもない。被害民は鉱山の食言を憤り、三日間の食料を携帯し確実な回答を得るまであくまでも厳談を続行す
同、四四・
〓とて、一九日又々大挙して押寄せ夜の一〇時に至るもなお撤退する模様がない(
八・二四付
)。
この交渉がどのような結果となったかは明らかでないが、大正四年五月の尾去沢鉱山長島村金治郎名儀で花輪
町長小田島由義宛の「排水堰使用願」が残されている。それは狐平部落の排水堰の排水を埋樋で高屋部落に流送
し潅漑水に供したいとの内容で、そのため狐平の堤防を破損したり、同部落の作場道として米代川に架けた橋の
修繕費は鉱山で支出するなどの付帯条件が示されている。尾去沢鉱山の具体的対応は、主として大正期に入って
からのことであった。
小坂の煙害
〓内の農・林業にもっとも深刻な災害をもたらしたのは、小坂鉱山の煙害であった。小坂鉱山
の煙害は、既に三四年の自溶法試験中に発生がみられた。翌三五年七月二三日付秋田魁新報に
は、次のように記されている。昨年来大煙突が落成し大鉱爐も近頃落成したので、山林は甚だしく煙害を受け、
鉱山附近の立木は皆立枯れとなり、農作物にも害がでた。小坂村では捨て置き難い大事なりとして有志の大会を
開き、委員を選定したのち鉱山事務所と談判に入った。また鉱毒のため農作物の収穫が少なからず減少をみた附
近の村々も、寄り集まって協議に入っている。一方鉱山側の対応としては、同山より毛馬内地方迄の間は、田畑
山林を問わず相当代価を以て出来得る限りに買受くる見込であるとの風説も流れ、「何しろ第二の足尾銅山なら
んかと地方の人民は恐れつつあり」云々という有様になった。