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商業の発展

〓治に入っても、それまで在町として発達し商業の中心でもあった、花輪と毛馬内の地位は変

わっていない。それぞれ旧花輪通、旧毛馬内通の中心市街地として人家や官庁が集中し、交通

連輸の要地でもある。また花輪は尾去沢鉱山の繁栄とその消費人口に支えられながら、郡の南部地域から旧花輪

通である岩手県田山地方に及ぶ商圏を形成していた。毛馬内もまた小坂鉱山の発展を背景に、郡北部一帯の農村

部をかかえ、独自の商圏を作っていた。

明治期における商業の実情を知る資料として、一二年の川村左学覚書(

川村

家文書

)、二六年の郡長・小田島由義

編『郡誌』(

小田島

家文書

)、四一年刊行の『鹿角郡統計要覧』

十和田図

書館蔵

)による営業者人数を、第三三~三五表に

掲げる。ただしその業種において、現在の商業の概念とは大きく異なるものがある。これは税金を賦課された人

数を基にしているためであるが、原本の分類のまま載せた。また兼業や課税の重複も多いため、人数の計は実人

員ではない。それでも郡内商業のおおよその姿をつかむことができる。

なお四一年の物品販売業六五七人(

前掲郡統計要

覧ノ内県税分

一について町村別の内訳をみると、花輪一七二、毛馬内一〇九、

現小

大湯五六、宮川二八、尾去沢二七、錦木二四、小坂一九〇となっている。小坂

)を別にすると、大湯が花

坂町

輪・毛馬内に次ぐ商店街を形成していたことがわかる。

また四〇年末の商業人口統計一

前掲郡統

計要費

)によると、商業戸口一、〇一八戸中、花輪二七三、毛馬内二五一

小坂二四九、大湯六五などである。小坂はいずれも花輪・毛馬内と肩を並べているが、明治後期に急速に発展し

た小坂鉱山の存在によるもので、当時の人口一二、八四五人が秋田市の三四、〇一四人に次いで県下第二位であ

ることと結び合わせると、その盛況ぶりがしのばれる。