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められた際の毛馬内分署長の報告によると、毛馬内地方は青森県との交通が頻繁で、青森港・八戸港等からの物

資の輸出入が便利であり、また下男下女などおよそ雇人と名のつくものはほとんど青森県人であり、北秋田郡か

らの物資の流入は少なく青森県との比ではないなど、毛馬内と青森県側との商業上の関係の密接なことを強調し

ている(

『秋田県史』資

料・明治編下

○花輪が藩政時代に花輪通代官所の管下に田山村を置いたこともあって、岩手県との結

びつきが依然として濃いことと対比できる、毛馬内の商業の特色である。

協同化への動き

三年一一月、鹿角共同商会が発足した。この年東京・盛岡間の鉄道が開通しており、そ

れにともなって東京の商圏が盛岡まで広がり、さらに盛岡商人の圧力が鹿角へ波及するこ

)。

とは必至であった。商会は、その鹿角側の対応策として発想されたものである(

秋田魁新報・明治二三

年一一月一三日付

鹿角共同商会の組織や活動内容は明確ではないが、時勢の変化に共同して対処しようとする姿勢は、商工業者

のみに止まらずそれ以前にもいくつかの例がある。月一回、百般の事理を討論し知識を交換するとした、一四年

発足の益友会や(

同前一五年

二月一五日付

)、上京学生の後援を目的として発足した鹿友会に見られるように、これは鹿角の

人々に共通した反応であった。

二五年九月には、毛馬内に毛馬内産業協会が組織され、産業奨励大懇談会が開かれている

同前二五年

九月一一日付

)。これ

がその後何年間続いたかは不明であるが、当時の商工業者の動きを知ることができる。

三八年には鹿角物産株式会社の発足をみ、鹿角の特産品として成績を上げつつあった木通蔓細工の製造販売が

同前三九年

統合化された(

)。これは鉱山を除外すると、鹿角で最初の会社組織である。また相前後して、鹿

一二月一四日付

角郡酒造組合、魚商組合、鹿角織物組合等も設立されている一

『秋田県酒

造史』等

)。