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めとされている。しかし同年一〇月の秋田退邇新聞に掲載されている広告によれば、県内店舗所在地として秋田
出張所のほか横手、本荘の二出張所があり、八カ所同時設立ということではなかった様子である。さらに翌一三
年一二月掲載の広告によれば秋田支店のほか横手、本荘、能代、鷹巣、花輪、大曲、湯沢の出張所の合計が八カ所
となっていて、この時点までには八カ所揃っていたことを示している。ちなみに『第一銀行史』は「明治十七年の
春、秋田支店が県下の要地である花輪・湯沢・横手・大曲の四カ所に出張所を設け、主として国税及び地方税徴収の
仕に当り、兼て一般の銀行業務をも行なった」としているが、これは誤りであることは既に確認した。
しからば花輪出張所等はいつ開設されたとみるべきか。「県内八カ所に出張所を設け」ていたというから、秋田
出張所が支店に昇格する一三年九月以前であること。新聞紙上で秋田、横手、本荘の三出張所以外存在しなかっ
たことが確認された一二年一〇月以降のことであること。傍証とすれば弱いが、一三年四月に南秋田、北秋田、鹿
角、山本、河辺五郡の税金及び税外納金鑑定納払の事務を第四十八国立銀行から引継いでいること。『第一銀行史」
にある「春」が気になること。以上のことども勘案して、一三年春に開設された、という線であろうと考えられる。
なお『秋田銀行八十年史』は、当時の花輪出張所責任者として小田島昌蔵、小田島源太郎両名の氏名を記載し
ている。
小田島昌蔵は花輪村字上花輪九四番地において井桁屋こと小田島徳之助の養子として酒造業を継承し、その〓
ら金融業に関わり、そして第一国立銀行に携ったものである。但しどのような経過またはつてによって関わるに
至ったものか明らかではない。また小田島源太郎は昌蔵の息子で、二代にわたり銀行業に携ったことになる。後々
まで小田島家の屋号を「銀行」と指称した理由である。