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の代理店を兼ねていたことも推定される。しかし三八年五月に起きた新田町内の失火は延焼し、舟場道、六日町、
谷地田町に至るまで一三七戸を全焼する大火となり、これに際し小田島昌蔵宅も類焼の災難に遭遇した。このた
め花輪支金庫の事務取扱は不能となり、急遽、安田銀行秋田支店は行員を派遣し、仮事務所を田村定治宅に置い
て対応したのである。この間の事情を六日町の『大火救興録』
六日町町
内文書
)は「殊に銀行(小田島昌蔵)にては手
違いより安田、秋田両銀行の紙幣一万五千円以上を烏有に帰し、弁償の責めに任ぜざるを得ずと云ふ、真に気の
毒なる災難と云ふべし、尚他の類焼損害を惣活すれば凡そ四、五十万円に上るならんと云ふ」と記している。
安田銀行は大火後の仮事務所としていた花輪町字上花輪一三五番地田村定治方に同年
八月正式に花輪出張所を開設し、花輪支金庫についても同出張所で代理事務を行なっ
た。『秋田銀行史』は出張所開設の趣意を「同地方は区域が狭く四方が山に囲まれて平野も少く、かつ交通の便
に乏しかったけれども、自然の恩恵に浴して小坂、尾去沢、不老倉等の鉱山が漸次隆昌を極め、諸取引も全国的
となつて金融機関の設置を要望されるに至ったので」云々と記している。主任は秋田支店長が兼務し一般銀行業
務を扱っていたが、当時鹿角には安田銀行花輪支店が唯一の金融機関であったので相当に官僚的であったらしい。
ての状況を、後年の新聞記事であるが、同出張所主任石川某が転出する際の人物評の中に伺うことができる。
安田銀行の鹿角進出
前略)町村吏員等に対し、僅か五ないし十分の遅刻を盾に厳として納税金の受領を拒み、強いて嘆願すると白い眼を見
せて叱り飛ばす位の芸当は遠慮無くやる方だった。「銀行家に似合わずナカナカ気骨がある」と云い、又、傍から「商売
入の癖に傲慢だ」との声がかなり流れていた。しかし、彼の罪ばかりではなかったかもしれない。何しろ大財閥の安田で
あるし、久しい間全部一手の味を占めて、ツト羽を延ばし過ぎた形があった。其の代り近年盛銀(盛岡銀行・筆者註)出
来、秋銀が来てからの態度が丸で変わった。お客にとってはこの上の便宜がなかった。(秋田魁新報・大正七