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を割当られたが、この割当量を獲得するためには「合掌掘」が最良の方法として用いたと述べている。
〓お、尾去沢鉱山において「合掌掘」と称した坑道開削の技術と同じ原理にもとずくものに、金沢市兼六公園
の「辰巳用水」や「箱根用水」、佐渡金山の「南沢疎水坑道」などがあるが、これらとの技術交流があったこと
を確認する史料は現在のところ見出されていない。
貿易用産銅
から専売へ
このような努力に支えられて、長崎貿易用銅の拠出義務が果されてきたが、慶応二年幕府はこ
れを打切りとした。この結果「盛岡藩にとってはようやく御用銅供出という桎浩から脱し、昆
去沢銅を名実共に藩の国産物として有利に運用できる時期が到来した。
しかしそれは反面、藩債弁済や窮迫した金繰の埋合せに産銅を充てようとし、山元に対しては寧ろ幕府御用銅
以上に過大な大坂廻銅を要請する結果ともなった。
事実、慶応三年二月の勘定奉行から一五〇~一六〇万斤の銅を大坂に廻銅することが令達されている。しかも
皆済計画の提出を含めてであった。
このことは盛岡藩にとっては藩債の弁済と金繰の埋合せのために、尾去沢の産銅を専売商品として自由に、し
かも独占的に運用することが可能となったという点で、藩財政の運用に新しい局面が開けたことを意味したとし
ても、地元にとっては、地獄のような責苦がさらに厳しさを増す意味をもつものと受けとめられたに違いない。