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すでに茂兵衛は、この年の春三月、尾去沢産銅の一手販売を経営資本の投下を条件に委任されていながら、こ

れによって名実共に尾去沢銅山の経営権が彼に帰したことになり、明和二年から百有余年に及んだ藩による直接

経営の時代は終りを告げた。

『尾去沢御銅山明治二年巳正月朔日ゟ閏三月晦日限出釦銅井御金米銭諸品御元払御勘定下帳』によると、茂兵

衛に対して実際に鉱山が引渡されたのは翌明治二年の三月であったことがわかる。

「御勘定奉行御銅山御用掛惟子繁治、御銅山一宇鍵屋茂兵衛江御引渡為御用登山ニ付、三月廿二日ゟ同晦日迄

入用雑事物代井諸働江御酒御添被下候御肴代共、御払同三千五拾三貫弐百弐拾五文」と記されている。

ともかく、経営の主体が藩から村井茂兵衛にかわっても、採鉱・製錬などの生産技術や仕法に特別な改変はな

いが、「旧藩以来長い慣例であった台所定詰の制が廃され、役人手代等に与えられた賄その他の給与が止められ

た。そのほか山先手代等の附随的雑給に整理が加えられるとか、諸内渡の停止とか、」すべて経費の節約に改革

が行われた(

『尾去沢・白

根鉱山史』

)

)。

要するに経営組織の若干の改変や冗費の節減をはかりながら、一方では直接生産活動の中枢である採鉱部門の、

金工や輩下の掘大工=鉱夫たちに対しては、年三回支給の木綿を、現金支給から現物給に改めたり、坑道普請の

促進をはかるための技術的方策としての火縄掘や追廻掘などの褒賞金を倍増するなどの策が講じられている程度

で、根本的な変革の跡は見出せていない。