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しかし鍵屋が経営を委任された後の尾去沢銅山は、藩の負債や諸物価の高騰などで決して坦々の道筋をたどフ

ことを許されなかった。一一月の鍵屋委任の翌一二月には、朝敵藩の処置として盛岡藩領全域が官地に没収され、

盛岡

閉廷の直隷地となった。鹿角郡の管理は、初め秋田藩による鎮撫行政司、二年四月から松代藩取締

(

月以降九戸県・三戸県を経て、同年一一月江刺県に併合されることになった。

)、八

新政府の評価

鹿角郡に対する新政府の評価は、三年正月江刺県大参事国府義胤の白石按察使府に報告した

言状に、端的にあらわれている。その一節に「鹿角郡は北方無比、天府之地、其上納もの拾

万石内外に比較すると聞及び候」「漫然不条理之盛岡藩に御委任相成候ては(略)、決して朝廷之御為に相成由

さず候。(略)広大之御益、空しく奸徒之私欲に飽かしむる而巳と愚考仕り候」と認められており、鉱山に恵ま

れた鹿角郡を一〇万石相当と表現していることが注目させられる。白石按察使府は当時の奥羽諸藩県における民

部省所管の鉱山司に対しても、つよく干渉する権限をもっていた。

鹿角郡が、尾去沢銅山と小坂銀山をもつが故に、新盛岡藩・県に再び編入されることのなかったのは、朝敵藩

への懲罰の意味と相まって、新政府が未だ薄弱な財政基盤の確立をめざしこれらの鉱山の官営を考えていたから

にほかならないと言われる。すなわち鹿角郡を江刺県管轄としたのは新政府にとって新置の県のほうが万事支配

し易いという得策によるものであった。

一年一二月、南部藩士大島高任を民部省鉱山司鉱山権正に任命し、三年正月から四月にかけて尾去沢および小

坂鉱山調査に当らせた。大島は四月末に、調査の結果を大凡次の上申書に認め提出した