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可く候也」と指令している。おそらくこの出張を契機に、井上は尾去沢銅山に深い関心をもつに至ったものと思

われる。

なお、銅山の鉱山司詰合廃止について阿部恭助日記『あつめ草』は、一〇月御銅山詰合権少祐少令史御廃止に相

成り、御山内を江刺県へ引渡し、花輪分県少参事登山、御詰合中残らず盛岡へ帰り(略)御山へは村井茂右衛門代

神右内一人残る処、同人代り波岡勇右衛門相詰る、とその様子を伝えている。

鍵屋の受難

いわゆる尾去沢官没事件は二年七月、南部利恭が岩代国白石から旧地盛岡へ復帰を許され、そ

の代償として金七〇万両の献金を命ぜられたことに始まる。献金の見込の全く立たない藩は、

盛岡に急使を下し、鍵屋茂兵衛にその大要を告げるとともに、新たに鍵屋を御用達頭に指定した。

一方、献金調達の指令を受けた大阪駐在の藩勘定奉行川井清蔵は、大阪商人の間を奔走したがその見込が立た

ず、独断で英商オールトに借用を申し込み、八月「洋銀拾四万弐千弗、外ニ蒸汽船一艘

代価八万

八千弗

百挺(

代価八千

五百弗

)延払ニテ買入、合テ銀弐拾七万八千五百弗」を借受け、契約証書を差入れた。

)小銃弐千五

川井のこの外債借入に対し、藩では外国人からの借用金で天朝献金に当てるのは宜しからずとして、破約する

よう命じた。オールトとの間には、違約の場合罰金として洋銀五万ドルを支払うという約定があったため、当惑

した川井は同年一〇月、ひとまず外債金の内一二万二、〇〇〇ドル、日本金一二万四、四一七両を月一歩七厘五

毛の条件で、鍵屋茂兵衛へ預けることとした。その頃茂兵衛は、国元の尾去沢銅山経営等は支配人沢田忠兵衛〓

委せ、専ら大阪に在って営業に専念していた。

しかるに川井は、その後三〇日も経たない同一二月に突然鍵屋に対しその返金を迫った。厳しい催足に鍵