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屋は拠ろなく翌三年閏一〇月迄に合計一一万三、三一八両余を返済した。残りの一万一、一〇八両余と利息金は

支払わなかったが、鍵屋方としては、ほかにも藩に対し多額の貸金があるので、これらを差引いてもなお余りあ

るという心づもりであった。後にこのことが、鍵屋敗訴の原因となる。

三年二月、新政府は府藩県において外国から金銀借用することを禁ずる旨の布令を発した。オールトとの外債

によって、主家や証文連署の者に累の及ぶことを恐れた川井清蔵は、再び鍵屋を利用し、オールトからの借主を

村井茂兵衛一人として調印させ川井一人が奥書した証書を作成した。この時川井は、御国用として一時弁用の為

であり「右に付少しも迷惑相掛申間敷」と念書を認め、かつこれ迄の巨額にのぼる藩への貸上金も調印弁用の上

はきっと下渡すとの甘言を用いている。しかも同時にドイツ・オランダの商人および高知物産会社からの藩借入

の証書を作成し、前同様の調印を命じた。村井方記録によると、事藩の緊急に係り一家

)の浮沈を顧慮する

を許さぬ、という川井の権柄ずくの強要に屈せざるを得なかったという。

三年四月、政府は盛岡藩の七〇万両献金について、残金の納入免除を指令した。この時までの納入金は五万三、

〇〇〇両であった。またこの献納免除には、林半七一

)等の幹旋が与って力があったといわれる。

三年七月、盛岡藩知事南部利恭が辞職し、盛岡藩は盛岡県となり県制を布くことになった。この廃藩置県にと

もない、旧藩債は民部省の許可を得て県に引継がれることとなった。二月に村井茂兵衛が川井の強要に屈して藩

債の証書に保証捺印しているが、その藩債は県債となり、その県債を村井が支弁するよう、九月県大参事東次郎

等によって改めて調印させられている。村井方記録によると、一〇月高知商社よりの藩借入金始末に、村井は尾

去沢銅山稼人名義で調印するよう命ぜられ、かつ盛岡県産物商社頭取を仰せ付けられたとしている。いずれも早