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大蔵省はこの時、大蔵卿大久保利通が外遊中のため、井上馨が大蔵大輔として最高の責任者であった。従って

盛岡藩債の一件が大蔵省によって再調査されたのは、井上がすでに尾去沢銅山を没収して岡田平蔵へ払下げる企

図をもち、その言いがかりをつけるため仕組んだことであろうとの疑惑を、のちにもたれることになった。

村井はなお返上価格のあまりに低廉なことをあげて抵抗したが、川村の聞き入れるところではなかった。結局

村井が五万五、三五六円で返上を承諾するという形で鉱山返上願が提出させられ、井上馨がこれを決済した。三

月二五日、村井に対し「旧盛岡藩外国負債之内、分借金返納を相滞候に付、従来請負罷在候陸中国尾去沢銅

山稼差止め、右附属品一切御買上、其代償之内を以て補度願之趣、拠ろ無き次第に付聞届候事」との達が発せら

れ、村井はやむを得ず請書を認めた。

このようにして銅山は村井の手を離れ大蔵省に没収されることとなり、同時に村井の家財封印は解除された。

そしてまもなく岡田平蔵の銅山経営について許可がおり、五年一一月には岡田に対し三万六、一〇八円を無利息

一五年賦で払い下げることが決定した。

疑獄事件となる

八年二月ごろ、村井茂兵衛は尾去沢銅山不当処分について訴訟を起こしたが、その五月失

恵のうちに没した。一方井上馨は、予算編成をめぐって司法卿江藤新平らと対立し、大蔵

大輔を辞職したが、この年八月岡田平蔵を伴い尾去沢を実地見分している。井上は銅山地境に「従四位井上馨所

有」の標柱を立てたとの噂を生み、事実今後同鉱山の指導を井上に仰ぐという山内布告まで出されたが、その布

告は岡田平蔵と瀬川安五郎

小野組、のち

の荒川鉱山主

)の署名によるものであった

六年一二月、子の茂兵衛

直三郎

襲名

)は再び尾去沢銅山不当処分取糺しを求め、司法省裁判所に出訴した。これ