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第三節鉱山の近代化に貢献した人々
一、銅山山先の活躍
山先各家の先進性
尾去沢銅山には、古くから川口、青山、沢出、奈良、岩屋の五家が、山先役としてその
系栄を担ってきた。これら五家は、代々家職を世襲し、鉱山技術者として山内に重きを
なすとともに、山相学をはじめとする祖先伝来の実学的知識を、いわゆる家学として継承し発展させてきたこと
でも知られている。
尾去沢銅山は、とくに明和二年(一七六五)藩営となってからは、全国的には南部銅山、藩内ではたんに御銅
山といえば尾去沢一山をさすならわしとなっていた。藩銅山方など諸役人の駐在する御銅山は、自然藩内鉱山開
発の中心となり、領内各地の旧山再盛は勿論新山の見立、施業方策の立案など、殆ど山先五家をはじめ御銅山の
技術者が実地見分の上で進める態勢がつくられていた。
このような銅山のなかから、すぐれた鉱業家の輩出したこともまた、当然の結果であった。幕末において盛岡
藩監察、勘定奉行となり財政再建、藩債処理のため京大坂の間を奔走し、明治戊辰の役後藩大監察、会計総裁に
挙げられた養斎奈良宮司(
享和三-
明治五年
)は、山先青山金右衛門の三男として銅山の田郡に生まれ、同じく山先奈白
直右衛門の養嗣子となり同家の名跡を継いだ人である。一七歳
文政
二年
)三沢廻寸甫見習となって以来寸甫、山方