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鹿角

役、山先格を経、天保五年(

一八

三四

〓)山先にあげられ、水沢銅山(

和賀

)真金山(

)、橋野銀山・金沢金山

閉伊

(〓)等の再盛に尽力し、かつ藩鉱業拡張のため屡々幕府との交渉に当たったことでも知られる。

山先川口与十郎・理忠太(

天保一二

大正八年

)父子も、幕末から明治へかけ山相家として名が著われていた。父子の山

信淵

相学に対する研鑽ぶりに感動した銅山方役人惟子繁治が、佐藤昇庵

)との誓約を破って秘蔵の『山相秘録』

の息

ほかを父子に与えたと伝えられている。理忠太は元治二年

慶応元、

一八六五

)藩命により鉱山学習得のため横浜に留学

アメリカ彦

し、アメリカ人

蔵ともいう

ル)に学んだ後、公儀の用人松田甚兵衛

江戸古銅吹方役所

吹方といわれる

)の随員として、内田慎吾と

共に足尾銅山など関東北越の諸鉱山を巡検し採鉱の設計に当たったという。のち小野組に招かれ、奥羽諸山を見

分して三〇余の鉱山を開いたと伝えられる

『鹿友会誌』第二一冊

・亡友追悼録による

)。尾去沢鉱山に帰ってからは、技術者としての

中心的存在で、一四年鉱業会社が各課の主務者を諸役員の投票によって選挙した際、理忠太は高点をもって採鉱

方主務に当選し発令されている。

岩尾勝右衛門

山先岩尾勝右衛門(

生・没

年未詳

)が、箱館奉行の要請によって蝦夷地に渡ったのは安政三年

一八

五六

のことであった。『新撰北海道史』

北海道庁編、

昭和一二年刊

)には、奉行竹内保徳が南部藩に鉱山熟練

者の派遣を命じ、同藩は銅山山先岩尾勝右衛門・同舗手代青山伝作・工藤市右衛門及び鉱夫等八名を箱館に派し、

付近の鉱山を巡見調査せしめた。その復命によって川汲・市渡の二山が、官業として開抗した、と記されている。

翌四年九月岩尾と舗手代石川仁吉はいったん帰国し、その後岩尾は再三渡島を繰返している。万延元年(

一八

六〇

には掘大工一五人程を連れて渡り、文久元・二年

一八

六二

)にも往復し、鉱山調査に従事した。即ちこの時期岩尾

は、幕府直轄の蝦夷地におけるお雇い技術者としての立場に置かれていた。