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るところがあった。明治初年、盛岡藩の瓦解とともに銅山は疑獄事件の渦中にまきこまれるなどの危機的状況に

置かれた。山相家の名を得ていた庄蔵は、明治六年足尾銅山の経営者副田欣一の懇請をうけて足尾に赴いた。

同一〇年に入って足尾銅山は古河市兵衛により買収されたが、同時に庄蔵も古河家へ移ってその山相方を担当

することになった。古河市兵衛の側近であった木村長七

のちの古河

鉱業監事長

)は、古河が当時弱小不振の足尾を万難を排

して手中に収めたのは、山相家青山庄蔵の意見によるものであったとしている。

初め足尾銅山の操業は思うにまかせず、鉱区の縮小と坑長の交替が相次いだ。一五年いよいよ資金に窮し、庄

蔵の意見でこれ迄怠りなく続行してきた本口坑の探鉱さえも中止されようとしたが、庄蔵とそのいとこ青山七三

郎(

安政元

大正八年

〓)の青山家家学の面目を賭けた強っての要請により辛うじて継続することとなった。かくて本口坑

鉄道廊下を掘進した結果、同一一月足尾興隆の端緒といわれた横間歩の大鉱脈総〓巾二尺余の本〓に切り当たっ

た。さらに一七年二月に至り本口坑道と二番坑道との貫通をはかったことから、出鉱量は同年五月の一カ月間で、

一五年の年産額に匹敵する三二万貫の鉱石を産出したという。この本口坑横間歩〓の大直利によって、足尾は

転して隆盛に向うこととなり、銅山王古河の名をほしいままにするに至った。

庄蔵の叔父主一郎の長男青山七三郎は、一〇年庄蔵に招かれ足尾に入ってから、専ら探・採鉱に従い一四年坑

部副課長、一六年一等坑部課長として、本口坑取明を担当し常に庄蔵の片腕となった。取明成功ひいては銅山発

展の功労者として、のち栄進して三〇年二等支配人、重役会議員に就任している。

青山金弥(

安政二-

明治四三年

)は、庄蔵の長男として尾去沢銅山に生れた。父の薫陶のもと山相学の真髄にふれ、かつ

父に同行して各地鉱山の実地を見聞し技術の視野を広めた。一〇年叔父青山富八郎(

金右エ門六男

のち佐々木姓

とともに初め