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藩校作人館に学んだ後、戊辰の役に花輪隊総取締として出陣し、三年江刺県学校花輪寸陰館の舎長補に挙げら

れた。五年、江刺県分局の属官として荒銅五〇〇箇に付添い上京中に、秋田県移管事務の終了を知らされ、その

まま東京にとどまった。同年一一月工部省等外二等出仕として東京鉱山寮に勤務することとなったが、このよう

な官途を選んだのは結局生家の影響の大きかった故であろう。

翌六年等外一等出仕となり、北陸一〇カ国鉱山七六カ処を視察した。七年鉱山権少属として、前年工部省経営

北秋

となっていた大葛鉱山(

)に勤務することとなった。アメリカ人お雇い技師に付添い、初めてイギリスより

田郡

購入した鉱山機械・蒸汽機関を船川港に揚げ、その運搬・据付の指揮をとった。

八年東京鉱山寮に帰り、九年鉱山少属、一〇年七等属として工部省会計局勤務、一一年福岡県三池鉱山に転じ、

翌年工部五等属に進んだ。その間三池鉱山沿革史七巻の編述に当たった。一四年岩手県釜石鉱山に転任し、倉②

課長の職にあったが、翌一五年官を辞して花輪に帰った。

六年県会議員、翌年鹿角郡長となり、以後一〇数年間郡長として郷土の開発につくした

関善次郎『雪楼翁小伝』、

「鹿友会誌』第二二冊ほか

)。

内田慎吾の長子清太郎(

元治元-

昭和三年

)は、二一年工部大学校卒業の工学士となる。同年生野鉱山局工師補となっ

たが、翌二二年宮内省御料局生野支廳在勤の技師試補を命ぜられた。二四年御料局技師、二五年鉱場課太盛主任

となり、二六年欧州行請暇願を許されドイツへ向けて出帆した。二七年同郡の先輩石田八弥の在学したドイツの

フライベルク鉱山大学校へ入学し、在学中学術研究のためドイツ国内をはじめオーストリア・ハンガリー等の諸

鉱山・工場を視察した。二九年七月帰国の途につきベルギー・フランス・イギリスを経てアメリカに入り、九日

サンフランシスコを出帆し横浜に帰った。